「伊村俊見__回転し展延する陶」 奥野憲一


imura

  陶芸家伊村俊見のこれまでの仕事を、少し駆け足で俯瞰してみると次のように言えそうだ。

第1期「内と外を察知する皮」('86年〜'93年)

第2期「構造を識知したヒダ」('94年〜'99年)
第3期「回転し展延するかたちの体認」('00年〜)
 
この3期の基底に通奏しているのが手捻り成形の黒陶であり、変奏したのが「皮」であり、現在に至る素形に転調する契機が「ヒダ」である、というように。
 「皮」について伊村はこう書いている。
 「土は私がかたちづくろうとするものの「皮」のような存在だと思った。(略)その「皮」でかたちをつくるとおのずからかたちを覆う空間と、「皮」が覆うってつくりだす空間ができる。私の作品はそれら2つの空間に興味を持ち意識することで生まれてきた」(註1)。
 また、「ヒダ」について乾由明氏はこう記述している。
 「薄く伸ばされた土の板__作者はこれを「皮」とよんでいる__で覆われた不定形な曲面体で、内部は空洞になっている。だがそれはただの空洞ではなく、多くの小さな土の「ヒダ」が複雑に絡み合ってつくり出す、迷路のように錯綜した空間である」(註2)と。
 伊村の言葉は'96年の、また、乾氏の原稿は'97年の時点であることを念頭にいれておく必要がある。それは、この「皮」と「ヒダ」に内在する意味の質量が第1期、第2期、第3期ではおおきく変化しており、従って、作品のかたちの在り処がやはり大きく転調していくことになるからである。そしてこのことは、やがて作品のシリーズタイトルの変更をも促していくはずなのだ。
 第1期からみてみたい。
 1984年に金沢美術工芸大学彫刻科を卒業。翌85年岐阜県立多治見工業高等学校窯業専攻科を修了し、この頃から伊村は黒陶のもつ質感に親和し現在まで持続することになる。
「第1回国際陶磁器展美濃'86」(註3)ではドーナツ状(この形態はリング状の円環作品として'95年まで数多く制作されるモチーフとなる)の作品の内側に「ヒダ」が強調され、また、「土の形態3人展」(註4)では球体あるいは円筒形の作品に穴を穿ったり、切れ込みをいれたりして内部に視線を強制させようとする作品となっている。この「内と外」を意識させる作品づくりは、トポロジー的造形意識も伴なって多くのバリエーションを発生させ'93年まで継続していく。
 伊村は初期から「内と外」の境界膜として「皮」を成立させることを察知したのだが、それはまだ表面が主で裏面は従といった水平な視線の範囲内でのことである。つまり、磨いて淡く光沢する部分を表面と意識しているということだ。表面も裏面もない垂直な視線からの造形に眼差しが向き、磨かれる部分が表でも裏でもなくなっていくのは、さらにのちの第3期のことになる。同時に「ヒダ」もまた視線を内側に向かわせるためだけの属性しかここでは与えられていない。だからこそ、この頃の作品タイトルは「クロムからの使者」「風からの使者」「遊」といった具合なのである。作品世界の本質を紡ぎ出していく命名というよりは、なにかを待って漂っている気配だ。
 '93年までのこれら初期作品は過程的な模索であるため、ある種のもどかしさを感じさせる作品ともいえるが、内面的なモチーフからみれば現在の造形へと地続きで結節しているのは確かである。このことは、これらの作品が作品として見られているのではなく、この作家がどこの地平に眼差しを向けているのかが顕在しているとみてよい。
 第2期の作品は、ひとりの作家の開花する直前の作品として、どのように現在へと逓加する資質を内包しているのかを窺わせている。 '94年の「朝日陶芸展」(註5)の出品作品「虚I」、「第1回信楽陶芸展」(註6)大賞受賞作品「虚II」や、翌年の「第4回国際陶磁器展美濃'95」(註3)陶芸部門グランプリ受賞作品から'99年「陶芸の現在_土の形態学」(註7)までの6年間は公募展入賞や美術館招待展・個展など大きな規模の展覧会への出品が続く。こうした経歴を裏付けるような質的転換がたしかにあったのである。「ヒダ」は単に「皮」の内側に視線を誘導するためだけの属性からはなれ、フォルムを成立させるための構造体として識知され、機能しはじめたからである。
 それでもこの頃の伊村は、学生時に学んだ彫刻制作の方法論による陶芸制作とでもいう観念でフォルムを成形していたようだ。まず最初に何かのかたちのイメージがあり、そのイメージに添って土でフォルムをつくるということである。イメージ通りのフォルムを作りやすいという理由から天地を反転して成形し始め、「ヒダ」を構造体にして「皮」を成立させるという方法だ。
したがって、ある程度の大きさの成形も可能となり、公募展入選・入賞などにつながっていく理由のひとつとなった。しかし、'98年にはこうしたフォルム優先の成形方法に或る疑問を感じはじめている。「彫刻は普遍的なものを志向するが、陶はそうでなくてもよいのではないか。かたちも、確固たるかたちでなく、変化してゆくもの、一刻のかたちでもよいのではないか」(註8)と思い、「虚 98 ー 3」ではひとつのかたちが二つに引きちぎられる動勢を表現した。この作品は翌年の「陶芸の現在_土の形態学」(註7)に彫刻的制作ともいえる「虚ー環99 ー1」とともに出品された。
ここで伊村は、彫刻と陶の制作アプローチの相違を深く思考する必要に迫られ、このあと一年ほど制作を休止する。「なにかからのイメージを借用してのフォルムでは、根本的に新しい仕事にならない」(註8)という考えからである。また、この第2期からの作品には「虚」というシリーズタイトルがつけられている。彫刻のマッスである「実」に対して、薄い「皮」の内外に空洞を包含する「虚」ということだ。
しかし、第2期後半からの作品では「ヒダ」が構造体として強く主張してきており、「皮」は作品構成の意味としては次第に希薄になってきている。つまり、制作休止のもうひとつの内在的な理由は、タイトル「虚」と造形要素「皮」との関係に整合性を持ち得なくなったことから呼びおこされた行動の過程でもあったのである。

 第3期の伊村俊見をこのようにいうことができそうだ。造形の質が内在する場所にいま踏み込もうとしているようにみえると。 2000年、一時休止して考えたあと実践したのは、やはり彫刻的でない方法から制作をはじめるということだ。彫刻的でないということは、最初にかたちのない不定形なところからはじめるということである。平らなところに薄い土を不定形に配し、その上に土の板(「ヒダ」)を垂直に組み上げていく。完成時にはそれを反転し、まな板皿状の作品となるというものだ。また、土の板を凹状にして外側に「ヒダ」を付加するという作品や、これを展開させて、凹面が複数組み合わさった作品なども試みている。さらに、こうして立ち上げた「ヒダ」を成長させたり、また、もっと量感を出そうと一重ばかりでなく二重にしたりもしている。しかし、これでは「ヒダ」が水平に広がるばかりで饒舌にはなるが、垂直な視線からの立体化には至らない。つまりここで実践されているのは、彫刻的でない制作方法を数多く実証しながら作品化できない方法を捨て、画定するかたちを実体化しようとする試みといえる。
 そして、ようやく伊村は、ひとつの素形を体認する。「虚2001 ー 1」からの作品である。これまで「ヒダ」は「皮」に対し水平に広がっていただけなのだが、ここでは、「皮」に隆起した「ヒダ」からもういちど「ヒダ」が積み上げられたり、「ヒダ」が「皮」に転位して表面となったりする。「ヒダ」が立ち上がり、折れ曲がったところが「皮」になって新しい面ができ、そこからまた「ヒダ」が立ち上がるのである。「皮」と「ヒダ」はここに至ってまさに垂直な視線からの素形を獲得したといえる。しかしまだ素形である。彫刻的でない制作方法として採用した、不定形な平面から「ヒダ」が立ち上がったり、あるいは、凹面の外側から「ヒダ」が立ち上がったりするのは、「内と外」に起因する「皮」の意識を未だひきずっているからだ。したがって、黒陶の面を磨くのは凹面部分か、その反転である凸面部、つまり、「皮」としての「表面」部なのである。同時に、「皮」の意識が潜在するかぎり、制作の出発点は平面または凹面からしかはじまらないのも、また自明のことである。
 実材を前にして絶えまなくくり返される手と身体の動きの過程から、すこしづつ粘性を増してゆく思考は、ある瞬間にかたちの発端として体認されることがある。そしてそれは解き放たれたような展開を加速度的にはじめる。'03年からの「虚」シリーズはそうした作品といえる。かたちをつくりだす起点は不定形な平面あるいは凹面からだけでなく、「ヒダ」からもはじめられる。寝かせてつくり、立ててつくり、斜めにしてまたつくる。ここには「皮」や「表面」や反転の意識はすでになく、まさに空中に漂い回転し、展延しながらかたちが生み出されていくようである。当然ここでは磨く部分も表裏に関係なく、片面が磨かれたり、両面が磨かれたりする。こここそが、造形の質が内在する場所といえる。ひとりの作家がその作品をうみだすまでに至った数多くの思考の跡がみえてくる場所なのである。
 さらにこうも言えそうだ。作家が、みずからの仕事の意味を言語で認識するのは、そのなし得た仕事の少し後からのことがあると。たとえば、回転し展延しながらつくりだされる現在のかたちと、これまでのシリーズタイトル「虚」とは、精密には対照されていないことを認識するのもそうである。この文章を書くにあたって、2月、伊村俊見にインタビューをしたのだが、そのあと少しして手紙が送られてきた。「私の仕事は土が延びることで作られる形態ですので(作品名を)「延」にしようかと考えています。(略)作品を360度、地球儀的な感覚で回転することを想定していますから(コンピュータ上での3次元CADのように)底の位置づけが希薄なためにいつでも傾き、反転しそのため重力に対する方向が定まらないために感覚的に自由でどこからでも延ばすことが可能になりました」と、そこには書かれていた。作品とタイトルが、つまり、実材と認識が、明確に眼に視えるようになったことのひとつのあらわれだ。この基層を明確にしたところからつくりだされるであろうつぎの作品が、わたしたちの前にどのような形姿を現わしてくるのか、非常に興味深いゆえんである。

(註1)伊村俊見「現代陶芸の若き旗手たち」(愛知県陶磁資料館企画展図録「自作を語る」1996年)
(註2)乾由明「伊村俊見 黒陶の世界」(瑞浪市市之瀬廣太記念美術館パンフレット 1997年)
(註3)多治見市特別展覧会場(岐阜県)
(註4)星ヶ丘三越(愛知県 1986年)
(註5)丸栄スカイル(愛知県)
(註6)滋賀県立陶芸の森産業展示館(滋賀県)
(註7)高島屋ホール(東京、京都 1999年)
(註8)筆者による伊村氏へのインタビュー、2004年2月
                                      
2004.04


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