造形技術としての「鍛金」の周辺

関井一夫 田中千絵
東京テキスタイル研究所発行 ART & CRAFT FORUM11号より転載

その3  
学制改革

 学制改革は、工芸科の中で各々独立していた、図案部・彫金部・鍛金部・鋳金部・漆芸部を統合し、デザイン系をVD(ビジュアルデザイン)・ID(インダストリアルデザイン)の2講座、工芸系を新たに陶芸を加えた5講座とし、1〜3年次までを合同の基礎教育期間とし、4年次を専門教育期間とする、それまでの技術の保存・伝承という意味合いの濃い教育スタイルを一新するものであり、時代の流れに伴う社会に対応する新たな教育システムの実験であった。しかし、その現場では高い理想を持つ教官と学生の間で様々な葛藤があったようである。 ここでは、学制改革時の第1期生(昭和35年度生)であり、現在東京芸術大学工芸科彫金教授である堀口光彦氏に当時の学生側からのお話等を氏の記憶も辿りながら伺い、学制改革の姿をより明らかにしようと思う。

 当時は、「学制改革については改革以前を知らないので比較することも出来ず、またその教育システムについての善し悪しも判らず、そういったものであるとして受け入れる他無かった。また60年安保の時代でもあり、多くの学生はとりあえず一時期そのような流れに流されて、授業には(休講ではないが)あまり出席せずにあちこちにデモなどに出掛けていた」というのが一般的だったようである。
 入学すると、受け持ち(担任的役割)の
内藤四郎氏[*1]を中心として、デザイン・工芸の教官達持ち回り(主にデザイン関係の教官)の基礎の授業を更けた。2年次、木工を含めた6種類(彫金・鍛金・鋳金・陶芸・漆芸・木工)の工房を1・2週間づつ回り、3年次になると、デザインと工芸の区別無く、自分の専攻したいと思う講座(例えば彫金とヴジュアルデザイン)へ長期間行き、その工房での指導を受けた。デザイン関係には、ヴジュアルデザイン(VD)とインダストリアルデザイン(ID)。工芸関係は、彫金・鍛金・鋳金・陶芸・漆芸の5講座(陶芸は35年度生の4年次に初めて開講されたもので当時はその前身としてクラブ活動から発展した準備室の状態)であった。堀口氏は、卒業後就職し、グラフィックデザイナーを目指していたので、「ここでは別の事を学ぼう」と、木工と彫金を選択した。周囲の学生については、「基本的にデザインの世界が学生たちにとって華々しく魅力的に見えた時代でもあったが、決して誰でもがデザインに向かっていたわけではなかったと思う。しかし、逆に『作家になる』という事に意識を持っている者もごく少数であったのではないか」と振り返る[*2]
 また彼は、学制改革で各講座の垣根を取り除いた事は評価しつつも、「学制改革時の教育について考えると、カリキュラムの組立においてみれば、大系的なポリシーがあって行われていたとは思えない。現在もそのように感じる事があるが、『工芸の基礎とは何か、デザインの基礎とは何か?』この大学がどう考えているのか。その概念が大変曖昧であったのではないか。各々の教官が“こうであろう”と考えてやっていたとは思うのだが、それがどのくらい普遍的であるのか、例えばバウハウスの様に理論立ってはいないし、また組織立っていたわけでもなかったと思う」と当時の教育を受けた側として問題点を指摘する。学制改革において大筋の了解事項はあったまでも、
工芸の未来[*3]に対する考えは、それぞれの指導者の思惑に委ねられていたのではないだろうか。結果として、断片的なカリキュラムのコラージュ、新工芸科としては姿の見えない教育理念という事になったのであろう。なおも、現在同大学の教授として、また学制改革時の1期生として「現在も過去も、芸大では残さなくてはならない純粋な技術と、素材に対してどのように感じるかという工芸的感性の教育を行わなくてはならないと思っている。“何で自分がそれ(素材・技術)を選択したか、自分の造形表現の上での必要性をしっかり把握してから選んで欲しい”というのが学制改革時の大きなテーマの一つであったと思うのだが、同時にデザインと工芸を統合した後の新しいジャンル(目標)を確立せずに、ただ“何もかも出来なくてはいけない”という非常に漠然とした持って行き方だったので、我々学生としては有難迷惑だという考えを持つ人もいただろう。改革後何を学校側が支度したか‥・その部分が欠けていたのではないか。むしろ学制改革をやるとしたら、別の学校を新たに創るべきであったのではないだろうか」と言及する。
 その後、制度的には後退してきたことについて堀口氏は、「当時の詳しい経緯は何も知らないが、この学校の伝統は、まず技術と素材が在り、しかもモチーフが具象的なものが多い。そこでの教育が身に染み付いている教官達がずっと教えているわけで、学制改革をしたからといって教官が変わるわけではないし、教官達自身の中で(新しいカリキュラムの中で)やり辛く感じた所もあったのではないだろうか。そして教官の持つ高い理想主義に、学生たちはついて行けなかったのだと思う」と語った。
新たな教育システムを組みながら、指導に携わるのは旧体制を受け縦いだ教官であり、新体制における教育方針を明確に打ち出し切れなかった教官団の自己矛盾は、学生達にとって少なからず不満のあった事であろう[*4]
 鍛金教官室では大学外の金属制作技術・工具を導入し作品の大型化を目指す中、彫金教官室においては、学制改革という新しい教育過程の中で、それまでの『工芸』と少し意味合いの異なる『クラフト』という目標を持ち、学制改革時の新たな工芸の方向性を考慮し、
平松保城氏[*5]を教官として招聘した。平松氏は、『クラフト』という考え方を彫金に定着させていった。
「明治以降『廃刀令』が施行され、刀の鍔や目抜きと言った『彫り物』の中心的な仕事が 無くなってしまった。そこで
加納夏雄[*6]等は、項点まで来た技術を花瓶の彫り(加飾)や額装・喫煙具の装飾といった、日用品(現在でいう美術工芸品)の分野に応用する事を考えていった。そのような流れから続いて来ている芸大の彫金では、『クラフト』という西洋の概念(使って楽しむという要素・機能を含んだ)であっても何の抵抗も無く取込む事が出来た。後藤先生[*7]は積極的に『クラフト』の導入に取り組み、それを引き継いで来たのが平松先生であった。彫金では、『工芸』と『クラフト』という難しい概念的な議論はなくても、旨くはまってしまったようである。以来30年余り、『クラフト』の中でもジュエリーとテーブルウェアーという、非常に目的をはっきりさせた指導のもと、芸大の中でも唯一クラフトをカリキュラムの中に取り入れ前面に押し出して教育し、学生もまた指導者(飯野一朗氏[*8]等)も育ってきている。」
 しかし、堀口氏自身の作品は『クラフト』とは遠い所に位置している。「自分の研究室に於いてはクラフトという分野が一方で確立しているが、自分自身としてはクラフトに手を出すというか・・・やってみたいとは思わない」。これは氏自身が学生時代から「私の場合は感性(やりたいこと)が先にあり、それが彫金の技術であれば彫金をやるし、鋳金であれば鋳金をやる、陶芸なら陶芸、染色なら染色でいい」という考えを持っていた事と、「学制改革においては指導領域と目的が、非常に漠然としていて、学生たちの立場に在っては、デザインと工芸を一緒にした場合に出てくるべき新しい分野をしっかりと提示してあげなくてはならないし、又その中で幅が在り『選択肢が沢山ある』ようにしてあげなければ、学生は何をしてよいの解らなくなってしまう」という経験、及び現在の教育者としての思いが、「(現在の)学生に対して、彫金の教育としての確固とした核は持ちながらも、学ぶモノは学生本意に彼等自身が自由に選択し、それに対して教官側も出来る限り対応して行くが、もし教官側がついて行けない場合は学生に勝手にやらせるしかない。それがもっとフランクにできる空間が学校にあれば、学制改革の当時と同じ理念で出来ると思う」という言葉に込められている。『クラフト』という学制改革以降、彫金で進められた中心的な指導に対する、他の選択肢として氏の制作は在り、氏自身『アトリエで制作する作家の姿で学生を指導する』という東京美術学校以来の伝統的な指導スタイルを今も持ち続けているのである。
 また堀口氏は、自身と当時の先生方への思いを「明治以降そうもいかなくなったが、江戸時代まではどの時代をとっても工芸というのは時代の最先端の技術を使っている。私は、この二千年もの歴史を持つ技術を大学でこつこつと学び取りながら、その素材と技術から生まれる感性の素晴らしさが、自分の制作活動における精神的な支えでもあり原点となっている。制作に様々な不安を覚えた時に、振り返り自分を確かめる為のバックボーンとしてあれば、安心してそこに戻りまたそこから再出発することが出来る。そういった事は、おそらく三井先生がおっしゃる鍛金であり、
山脇先生[*9]にとっての彫金であると言えよう。三井先生は彼の鍛金に対する汲めども尽きぬ思いを、時代の変容の波に流され去らぬようにと、学制改革に込めたのではないか。」と締め括られた。
 戦後の高度経済成長の中、産業新興の為のデザイナーの養成は社会からの強い要請でもあった。また学生自身、華々しいデザインの世界に身を置く事で、社会的な成功を夢見る者も多い時代であった。学制改革は三井氏の思い描いた『造形作家の養成』というよりも、より多くの『デザイナーの排出』という形で社会に人材を送り出す事になった。しかし、一方で堀口氏のように、学制改革時の経験を現在の造形教育に活かす教官も生まれたのも事実である。三井氏等が次世代の育成を試みた学制改革は全てを満足させるものではなかったとしても、旧態然とした大学のある部分に一石を投じたものではなかっただろうか。いずれにせよ、高い理想のもと、教官内部・学生達との摩擦を起こしながら、60年安保の時代から始まった学制改革は終焉を迎える事になったが、更に鍛金研究室では様々なカリキュラム問題と新時代の技術研究を巡り、改革が行われて行く。そして三井氏の思い描く作家の養成は、奇しくも70年安保の時代を前後し、徐々に結果を出す事になるのである。

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*1 内藤四郎(1907年〜1988年)

*2 これは、現在も多くの学生が明確な卒業後の展望を持つこと無く美大に進学する現状や、美大進学に難色を示す保護者に対する方便として、社会に就職という受入れ口のありそうな、デザイン・工芸系を目指す事という現状と酷似しているのではないだろうか。「就職するか作家になるかは入学してから考える」というのが学生の本音のように思える。

*3 デザインは産業界からデザイナーの早急な育成を望まれていたとしても、工芸に対して社会からの強い要望があったとは考えにくい。工芸については、時代の波の中で作り手側(主に芸大の教官)からの強い欲求によって、また工芸の技術を習得した者のデザイン界での活動の場として、その未来が試行されたのではないだろうか。
*4 堀口氏は答えた覚えはないが、「昭和39(1964)年、4年次の専攻に分かれる前、この改革におけるモルモット的存在であった学生達にアンケートが配られ、クラスのうち半数程度の学生が回答を提出している。最近その写しを見る機会があり、それを読んでみると、大学院まで通して3年間、専攻別に学べる期間があると考えていた学生も中にはいたようだが、私はそういった考えは全く無く、1年間では到底専門分野は学び切れるものではないと感じていた。一方で、4年次で卒業し社会へ出ていった者も同級の中で半数余りいた。時代が時代であったので、社会に対して充分対応できたし、作家としてより、デザイナーとして社会に出ていった者が殆どで、時代の要求もそちらに向いていた。」堀口氏の同級生は留年者も含め70名程度が在籍していたが、昭和40年3月に初めて修了者を出した東京芸術大学大学院は、それらの学生を全て入学させるキャパシティは無く、当然学部で卒業し、社会に出ぎるを得ない者もいた。
 また堀口氏より見せて頂いた当時のアンケートは、学制改革を知るうえでの貴重な資料である。『工芸科三年生アンケート報告』と遺された資料は謄写版印刷で、昭和38年1月付けとなっている。鉛筆書きで、「読んでいただきたく思います.三年責任者.1月16日」として、漆芸教官室に宛てられている。「先日学生間で取りましたアンケートの報告を致します。我々が出した、これらの問題をこれからどの様に発展又は、具体化させて行くかは難しい仕事であり、我々のみならず今後非常な努力が必要でしょう。お互いの問題を知り、一期生として三年間学んだ学生が、今どういう事を感じているかを先生方にも理解していただく必要があると思います。このささやかな刷り物がこれらの色々な問題解決の第一歩とならん事を望みます。そしてこれからの発展は皆様一人々の自覚と行動に待つことになると思います。・‥」と記され、学生の名前は伏され、各人の主要部分を抜き書き式にして、「係りの至らなかった点は、クラス会等の時に、正しく大いなる発言を望みます。」と締め括り、続いて学生のアンケー トが記されている。番号で28まで記されているので、28名の学生のアンケートを取り上げたこの19頁に及ぶ報告は、殆どが現状の指導への不満ではあるが、当時の学生の肉声として以下一部紹介する事とする。
「先生方はおっしゃいます、“君達は工芸科の学生だ。モルモットかもしれないが、バイオニアだ。図案計画の学生でもなければ、漆芸金工の学生でもないのだ”おおせのとうりです。私は工芸科の学生であることに誇りを持っています。だが先生方の方はどうでしょうか?。自由な話し合いが先生方の間で行われていたら、1・2年では“こういった勉強が実に大切な事だ”と言われ、3年になれば“あんな教育は意味がないよ”と言われながら、なお同じ教育が後輩に行われつつあるというような珍なる現象は起こらないはずです。」教官側の拭い得ぬ旧教官室の垣根と、教官間での討議不足を、皮肉を込めて憂う学生は多かった。
「6年制を前提に工芸科一本化を断行した当事者達の責任に於いて誰でもが学校に残れる制度にして欲しい。そうでもしなければ、今迄のカリキュラムによる工芸科を4年終了しても中途半端な学生にしかなりえない。又、純粋工芸を志す生徒には一流の師と勉強の場を得るか失うかの深刻な問題である。」基礎課程3年・専門課程1年という制度にもの足りなさを感じる学生や、伝統的な工芸を学ぶ事を目的としていた学生にとって、大学院の定員数は重要な問題だったのであろう。
「大学院の目的や内容、方針は出来るだけくわしく又、早く明らかにしてほしいです。」色々な問題が学生にとっては不鮮明に写り、不安感を覚える者も多かった。「芸大生となって3年、その間の積み重なる不満や不安は工芸科としての教育方針の不徹底に帰依する。関連性なくバラバラと学ぶということは、各科教官相互の不統一は、ある程度追求されても仕方あるまい。4年次になって専攻別にわかれる際、いわゆる人数制限による希望通りにいかない人がでる可能性が大きいが、私は3年間の工芸科教育方針からして、1つの枠にとじこもる必要はないと思うしそのため教官側の強制もあってはならないと考えます。それで、たとえば、陶器とIDといった様に2課程専攻を提案します。」一貫性の見えないカリキュラム、各教官室の意見の相違、専攻の定員制による制限に対する不満や、カリキュラムやシステムに対する提案も幾つかなされていた。
「この混乱は何に起因するか。端的に言えば、それは新しい工芸科(=制度、そこから生まれる工芸家)に対する工芸科の先生方のビジョンの欠如である。そのビジョンが生まれ得ない理由は、必然的な理由で自主的に先生方の手に依ってこの制度へ改革されたのではなくて、天下り的な改革であったためだろう。ある先生いわく、“何でも出来る工芸家、これがこれからの工芸家の姿である”(例えばMaxBillの如く、Stig Lindbergの如く)果してこれが理想像であろうか?このビジョンは新しい制度を採ったが故に、無理に捻出された回答の様に感じられる。又、ある先生いわく、“何でも知っておいて損な事はない。将来何かの役に立つ”ここまで来るともうビジョンなどというものはない。」教官側に対する不信感は様々な表現であらわされている。 これらのアンケートを突き付けられた教官、とりわけ三井氏の心中は察するにあまりあるものがある。教官側からの物言いはあるとしても、このアンケートの内容はあまりにも生々しいものである。

*5 平松保城(1926年〜  )

*6 加納夏雄(1828年〜1896年)

*7 後藤年彦(1911年〜1962年)

*8 飯野一朗(1949年〜  )
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