造形技術としての「鍛金」の周辺

関井一夫 田中千絵

東京テキスタイル研究所発行 ART & CRAFT FORUM10号より転載

その2  東京芸術大学


 戦争を挟み美術学校・東京芸術大学の金工(鍛金)の流れが変わる。その流れを、昭和中期(昭和35年〜40年[*1])に行われた学制改革を中心にその核となり活動した三井安蘇夫氏の記憶を基に考察することにする。

 昭和16年太平洋戦争勃発。20年終戦。日本国憲法制定、学校教育制度改革、戦後の復興に伴う産業・経済構造の変化、明治の開国以来とも言える物の考え方や制度の社会・個人レベルでの急激な変化は、美術学校内においても無縁のものではなかった。24年東京芸術大学設置。戦後欧米の造形教育が流入[*2]。これまでの美術学校工芸科の目的である技術の伝承・保存を中心とする考え方が崩れ始める。
 戦前の教育を美術学校で受けてきた三井氏は素晴らしい技術を持つ先生達の蹟を追って行くことに矛盾を感じることとなる。「何故この様に手間をかけ、この様な物を叩き出して行かなくてはならないのか、果して技術そのものが芸術なのか、芸術の生命は技術なのかモノなのか」。彼は、技術の伝承・保存を中心とする従来の工芸教育の考え方と、芸術・美術としての工芸、そして新たな産業構造のなかでの工芸、それらの狭間のなかで、新たな鍛金の未来を模索していた。 昭和28年、助教授に就任した三井氏は、「もはや学生達に左甚五郎を押し付ける時代ではない、技術だけを指導して行けばそれで良いものだろうか?」という疑問に突き当たる。学生達もまた、もっと身近なノを学びたがっていた。[*3]
 指導者としてまた作家として、彼は意欲的に物事を探求していた。時代は自由・民主主義と言った流れの中、「地金の大きさで創るモノを左右されたくない。何故こんなに小さいモノを、床の間の上だけで考えなくても良いではないか(それまで置物としての鍛金の作品は、床の間に飾ることの出来る大きさにほぼ限られていた*4])。もっと自由にモノを創りたい。もっと広いサロンまで広げて行きたいし、屋外まで領域を広げて行ったって良いのではないか。その為にはそれらに即応したところの技術を研究しなくてはならない。そうでないとこれからの鍛金(鍛金の新しい歴史)は無くなってしまう。この先鍛金を残すためにはどうすべきか。一つのモノの中に閉じこもってしまったら消えてなくなってしまうだろう、この技術の持つ大きな可能性を引き出せるのは、この芸大の中でしかない[*5]」と彼は考えた。 三井氏は溶接を鍛金制作の中に積極的に取り入れることを勧める。「祭良の大仏だって方法は違っても溶接を用いた造形だ[*6]。工芸品である高岡の銅器も部分ごとに鋳造し創られ溶接されている。ガス溶接を中心に・機械工具・電気溶接・鍛造機等、学校などの機械設備を試験的に解放してもらい、実験的制作をしてみた結果として、やはり床の間のなかに留まって居る必要はなしと再認識し、これらの技術を使って彫刻に負けないモノを創ってみようじゃないか」と。これに伴い、溶接による部分的組織変化のため従来の色上げ方法に無理が生じ、着色の研究にも発展する。学内において小口八郎氏が現在の『緑青液[*7]』の開発に成功するなど周辺の研究も盛んになってゆく。また従来の制作道具に変わる、産業工具として普及してきた工作機機を、「機械を使うこと・制作することに用いることを主としてではなく、世の中の機械とその技術的能力を学生たちに認識してもらう」ことを目的として導入を計った。しかし、「鍛金の基本的な技術を忘れてはならないしそれを知らなくては動物の足も絞り出せない」と、学生の絞りの技術課題として三足香炉[*8]を残すこととした。これら一連の研究活動と指導により『鍛金技法』の周辺は、『打ち物・鍛治物』といった従来の鍛金制作から、『溶接による作品の大型化、磯城による工作、材料・技法の科学的研究』と拡大されて行くことになる。
 さらに制作を学び社会において活動すべき次世代の育成を学制改革という形で試みることとなる。昭和35年から40年の学制改革に関して三井氏は振り返り、「『工芸』の枠を外したかった。『造形』という言葉に大変大きな魅力を感じていて、金属で作る彫刻だという考えもこの中へ(鍛金と言う分野の中へ)入れたかった。これが学制改革の一番大きな要因となった。」と語る。5年間という期限の中で(三井氏は5年と言うが実際はその前後の変換期もあり、もう少し長期に及んだと見られる)三井氏と内藤四郎氏等金工の教官達は大学のシステムを試験的に変えてみた。その考えの根底には、「芸大の講座別と言う大きな縦割りの枠の中でモノを考えている事への疑問」が常に存在していた。「分けないでなんでもやらせてみる。やらせてみた上でその人の能力にあわせて進めて行けばよいのだ。講座に対して学生の枠は設けず一括で摂ってしまえ。そして好きなように選択させてみる。彫刻も陶芸も金工も皆やりたいように3年間やってみる。そしてそれを総括する意味で制作するのが卒業制作である。そのために最終学年を専攻別に分ける。」そう言った考え方を基盤に改革は進められた。
 実際昭和35年度入学の学生からデザインと工芸の総ての講座が一緒になった。4年次に漆・彫金・鍛金・鋳金・陶芸・VD(ビジュアルデザイン)・ID(インダストリアルデザイン・染色を含む)の専攻別に分かれ卒業制作を行った。表向き、美術学部履修案内によればそのシステムは昭和40年まで続きその後最終学年だけでは専門的技術を卒業制作に持って行くことは不可能・時間不足ということで、三年次後半から専門に分かれるという事になったとなっているが、実際は4年次からの専攻別システムは昭和37年までである事が当時在籍していた卒業生のコメントから知ることが出来る。基本として下の学年ではなんでもやらせてみる。そして専攻科で自分の専門に分かれる。従来の縦割りの教育システムではなく、例えば学部はどの講座総てをも自由に学び、大学院に行ってはじめて専門に分かれると言った、学内を大きな並列のシステムに変えるくらいのものを夢見て、またそう言った環境に魅力を抱いていた中堅の教官達と、長くデザインの方で指導してきた教官、また工芸技術の伝承を指導してきた教官等との狭間で、改草は実験的に成されたのだ。
 この改革の教育と言う次元での目的は、「『技術というよりは本当の意味での芸術を理解して行けるような学生を育て、彼らがきちんとした技術を知った上で造形美術を考えることがやきるようにならなくてはならない。今までのように技術の伝承・保存に賭ける学生もまた良しとする。その選択は学生の意志に任される。また、教官の側はどのような学生にも対応できるような技術と造形に対する知識を持たなくてはならない。』という所にあった。」のだと三井氏は言う。彼はこの改革の中で自ら実験研究的制作に挑み後輩達に影響を及ぼすとともに、同時代の作家達と共に職人・工人達にない『美術造形』と言う意味での鍛金技術の流れを形成するに至ったと言っても過言ではないであろう。(この改革の後は、昭和41年42年の準備段階・43年からは3年次より完全にデザインと工芸に分かれるシステムとなり、昭和50年、現在のシステムの前進となるデザイン科の分離独立へと向かう。)


  
三井氏は、戦前の東京美術学校の教育を受け、明治から大正・昭和そして戦後の鍛金の受け渡しの時期に、もしくは、開国に揺れる明治の美術界に次ぐ、我が国近代における歴史的な第二波としての大きな変動の時代に、鍛金界に強く影響を及ぼし後進を導いた教育者であると同時に作家である。時代は工芸よりもデザインを必要とし、学生もまた工芸よりもデサインを志望する者が多い中、その命題は鍛金の次なる時代での生き残りを賭けた多用性であり、工芸と芸術の融合であった。東京芸術大学で昭和30年代に行われた学制改革と、三井氏を中心とした鍛金教官室における造形指導は、高度経済成長に代表される社会・経済構造の変化により、伝統的な鍛金の仕事が社会的に存在困難となり[*9】、商業的・工業的また一部の地方での伝承工芸的存在となりつつあった中、ある意味での伝統技術を伝承し、また新しい『造形』としての鍛金の在り方およぴ技術としての存続の流れを創った、大学と言う教育機関の中での工芸技術発達の歴史であり、これは経営・経済を伴わない環境の中であるからこそ成されたことであろう。しかし、この活動なしにして果たして鍛金という技術が単に『社会での伝承』というなかで今日まで存続し『造形技術』として存在するに至ったとは想像しがたい。
 今日、造形的鍛金を学ぶ所は東京芸術大学にのみではなく、様々な大学及び教育機関にも存在する。が、それらにおける指導者の源をたどってみると、多くは東京美楯学校および東京芸術大学の卒業生にたどりつくこともまた事実なのである。しかし、三井氏は述べる「学制改革の目的は、師範科のように指導者を養成するものではなく、作家を養成するものであった」と。

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*1 東京芸術大学履修案内による。

*2 当時の卒業生は、通産省の産業工芸試験所で指導に携わる者も多く、その中から平野拓夫氏(現多摩美術大学立体デザイン科教授)等が学制改革の前段階の時期に工芸科(当時は漆・金工の2講座)、図案科(現デザイン料)の1,2年生の基礎教育でパウハウスの流れをくむデザイン教育に携わることになつた。

*3 当時、鍛金の学生であった伊藤廣利氏(現東京芸術大学大学院芸術学科美術教育専攻教授 昭和38年卒)のインタビューをあげることにする。 「当時、先生方の仕事はデザインと比べて華々しく見えませんでした。花瓶置物といった工芸品をある程度つくって販売業書にもっていっていたようです.我々が満州から引上げ直後に入つた住宅にはそれでもまだ『床の間』がありましたが、いわゆる集合住宅になるにつれ『床の間』はなくなって行きました。これは、それまでの工芸品の需要がなくなつていったことを意味します。そして、床の間からぬけでた工芸運動として、現在のクラフト協会の前身であるクラフト運動等が出てきます。住宅の変化は、新たな住空間への新たな市場を求める動きとなったのでしょう。」そして、「私もデザイナーを志した時期もありますが、高度経済成長の中で、実際に『モノを作る』事よりも『デザイン』に重点がおかれた世相でもあり、工芸ジャンルからデザイナーとして業界に入つて行く者も多く、それにたる十分な教育を受けていたのも事実です。実際鍛金家として僕の上の世代は、鈴木治平先生(現東京芸術大学名誉教授 昭和27年卒)、新山栄朗先生(現東京芸術大学名誉教授 昭和30年卒)といった方々まで間が開いています。」
 また、当時学制改革中、漆を専攻した増田昌弘氏(昭和40年卒)のインタビューも付け加えることにする。
 「36〜39年頃は工芸科の学生を中心として『デザイン学生連合会』に参加する動きがありました。これは、早稲田大学・構浜国立大学・教育大学・女子美術大学・武蔵野美術大学・多摩美術大学・日本大学などの学生が集まり、パネラーも公明な学者の方達を交え、『パウハウスデザイン』や『日本建築の流れ』、また『デザインとは何か』と言った事から、『大学とは・人間とは』等と言った事まで、議論・研究・発表するものでした。私も京都で行われた時に旅費を作ってまで参加した事は、今でも思い出深く思っています。」

*4 1枚の地金を継ぎ足さずに、打ち上げて仕上げることが至高の枝とされていた。ゆえに物の大きさは地金の大きさに制約されることになる。

*5 この時代、鍛金協会も職人達が商売の方向へ強く向いていったことにより、職人と大学の金工科との隔たりが大きくなり、会の活動は衰退してゆくことになる。そして、研究というある意味では社会における直接的な経済活動と一線を画するところである大学において、次の時代を模索する試みを行うこととなる。

 *6「鋳掛け」と言う、溶けた鋳を接合箇所にかけることにより溶着し、繋ぎ合わせる古典技法。

*7 塩化アンモニウム・硝酸銅・酢酸銅・硫酸アルミニウムカリウムなどの化学薬品を調合し、化学的に銅の錆である緑青をふかせる液体。

*8 鍋・壷などを制作する円形絞り(回転体を成型する枝法)と置物などを制作する変形絞り(非回転体を成型する技法)の両方の技法を合わせ持つ課題。−枚の地金から三本の足を絞りだしながら回転体状の本体を打ち上げ、さらに、おとし・火屋(ほや)・げじょうといった合わせものを同時に学ぶ課題

*9 既に明治期に入り幕府が後退、封建制度が崩れ明治政府のもとで西洋の文物・制度が導入され、生活様式は変化し、工芸界も幕府という大きな後ろだてを失った時点で、その枝術的発展は危うくなっていたのだが.
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東京芸術大学美術学部履修案内
東京芸術大学同窓会名簿
「東京芸術大学略年譜」(東京芸術大学創立百周年記念展図録より)
昭和62年 東京芸術大学・朝日新聞社 
青木 宏「拡大する鍛金一三井安蘇夫とその後継者たち」 
前澤 敏編「三井安蘇夫年譜」(拡大する鍛金/三井安蘇夫とその複雑看たち展図録より)平成5年 栃木県立美術館
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